卓話「生い立ちの記(1)」

担当:本多正彦君

満79歳にあと2日、流れに棹さすことも無く、流れ、流されの年月を遡るとする。
厚木ロータリークラブでは、大貫嘉一さんが、神奈川新聞に「私の履歴書」を連載され、波乱万丈の生き様を示され。和田正幸さんはクラブの卓話で話され、週報の原稿も丁寧なものでした。私は出生から、年を追ってその時代等の記憶を思い出して行きます。独り善がりの、他人には全く興味のない事柄、しばらく我慢して下さい。
1935年 1月30日 東京市品川区五反田町の田谷病院にて、前田源一郎、梅子の次男として誕生・住所は京王線の幡代駅(廃駅)のそば、渋谷区幡ケ谷
1940年 皇紀2600年の祝賀式典が印象にある。1941年 学制改革で国民学校となり入学「サイタ タイタ」ガ「アカイ アカイ」に。12月8日、真珠湾を奇襲、太平洋戦争始まる。
幼少の頃、病弱で、母が名医を捜して尋ねてくれた。耳鼻科の神尾病院、眼科は淀橋病院、現在の東京医大の馬詰先生(後の院長)や上野池之端の井上眼科など、今も雑誌などに紹介される病院です。改めて母の思いに頭の下がります。
戦争は、初戦華々しい戦果を挙げていたが、1942年7月のミッドウェイ海戦以降は暗転していった。
1943年 4月、山本五十六連合艦隊司令長官戦死、5月国葬を甲州街道にて見送る。
同年 夏 学童陳開が始まり、長野県北佐久郡のお寺との話あり、父の故郷の栃木県宇都宮市相生町に一家で疎開、昭和29年3月、宇都宮高等学校卒業、早稲田大学第一理工学部入学を期に、東京駒込に戻る。
疎開は中島飛行機の宇都宮への帰りのトラックで引っ越し。街の中心地「バンバ」の親戚の家に仮住まい。中央国民学校の3年生に転入。言葉(方言)に驚いたが、すぐに「だんベー」言葉の仲間入り。今流行の「イジメ」は鈍感だったのか体験していない。
1945年 7月、深夜。宇都宮大空襲、当時大谷石造りの「松が峰教会」の近くの高台に住み、市内全域が全焼する光景が、鮮やかに脳裏に焼付いている。父の匂に「薔薇火と(しょうびひ)燃えしと見たる人いわず」があります。
その後すぐ、家は焼けずに残ったが、又北へー里半ほどの豊郷村の農家へ疎開、西へ一里ほどの豊郷小(5年生)へ転校して、毎日裸足で通った。
1945年 8月15日 敗戦。学校の校庭に整列して、戦争が終わった訓示があった。
しかし、詳しいことは後に知った知識と重なっている。その後しばらく豊郷村で過ごした。麦刈りの手伝いをして、大きな「おむすび」を貰ったこと、柿泥棒をした事、などの思い出があります。6年生になって宇都宮の西部に戻り、元の小学校へ。
1947年 4月 新学制6・3・3・4となり、新制一条中学に入学。
二年生の時、眼病が悪化して、一年留年、西大寛町に庭つきの家を求め落ち着く。近くの女子高校に版画家の川上澄生が寄宿していて、父と交流があり下駄履きで遊びに来た。
この頃、宇都宮でも、疎開者は食料不足で、母と物物交換の買い出をした事が印象に残っている。サツマ芋、カボチャは十年ぐらい前までは見るのも嫌でした。
中学時代は男女共学です。先生や、他の中学よりの友人の影響で「生物、特に昆虫採集に興味を覚え、近く、やがては遠くの山野へ捕虫網をもって遠征した。
後に国蝶に指定された「おおむらさき」などを自慢でした。標本箱も幾つも作った。また戦後東京よりの転校生で数学に優れた友人が仲間入りした影響で、数学は高校生レベルまで興味を持った
1951年 3月県立宇都宮高校(男子高、創立1879年)に入学、中学の仲間は他の普通高、商業、工業、女子高に別れて進学、{中学卒業で就職が過半数}の時代でした。
学校は進学校であり、勉強しなくても成績優秀な天才もおり、多少、勉強する気に成ったが、眼病の後遺症もあり、無理は出来ませんでした。受験勉強は、東京の古本屋で求めた「荒巻鉄雄の英文解釈」の熟読「旺文社の蛍雪時代と赤尾の豆單」の活用程度でした。但し、地方のため、受験情報はあまり無く、母親も関心は薄かった様です。
*同窓会 戦争中の小学校はそれぞれ数人の友人がいる程度、中学校は留年後は今でも担任の先生が健在で3 ~ 5年間隔で大宮でクラス会を開催、女性が極めて元気。高校は昭和2 9年卒業で「笑福会」と称し、近年盛んで、宇都宮の本部、東京の支部とも、年に数回開催。
1954年 3月高校卒業。東京都駒込に一家で転居。
1954年 3月早稲田大学第一理工学部に入学
高校の同級生の対象校は先輩の多い東北大学が主。
親友も東北大学に多数進みました。私は東京に戻りたくて、幾つか受験し、留年で1年遅れていて浪人は適わないが、幸い本命の大学、学部に合格しほっとした。
父は文筆業、世襲する様な才能も無いので、興味のあった理系、工学系を選んだ。
なほ、宇都宮時代再疎開した北、東の豊郷村等は1954年町村合併で、続いて1955年南、西の雀宮等も宇都宮市が併合した。
大学の専攻は機械高学科で、内燃機関の渡部寅次郎先生の研究室で「ディゼル機関の燃焼」をテーマに4名で卒論の勉強をした。丁度4人です。麻雀全盛時代、卒業実験を口実に、まず卓を囲む事からの時代でした。
大学時代の華はやはり、六大学野球、そして早慶戦です。宇都宮高の同期の中村正三も選手、ピッチャ一石井連蔵等、何回か優勝の美酒、新宿の夜を覚えています。そして長島茂雄の打球、ライナーは眼に焼き付いている。また落語研究会(おちけん)にも入ったが素人はだしが多いので敬遠ぎみでした。柳家小さん、連れの小ゑん(談志)など大隈庭園の吾妻家で、「はなし」を沢山聞かせて貰いました。
1958年 3月大学の卒業論文が無事合格し、卒業出来る事となった。
就職先として、宇都宮とも縁があり、スバル360の発表も知っていた富士重工業を教授が推薦されたので、早々と決定しました。
卒業論文の四人はその後もグループとして、数名の仲間を加えて、今でも付き合いを重ねています。九州の普賢岳の噴火の直前(1991年5月)に、長崎に集まったとき。毎年一回は夫婦でゴルフを楽しもう。年末には卒論の在京メンバーが新宿に集まり、忘年会とゴルフ計画を決めているが、そろそろ、年齢も考えて見直し頃と思っている。
丁度、就職前までの流れを、思い出しつつ書き留めたが、一昨年宇都宮の同期会に参加した折に、豊郷村や小学校の見当を巡回したが、全く変わって以前の面影もなかった。宇都宮美術館当たりが、裸足で通った小学校かと感慨深かった。

クラブ会報・IT委員会 2014年 2月 25日 火曜日 | | 例会