第2721回 例会 卓話 「米山梅吉翁について」

担当:西嶌洋一君

 

~米山梅吉翁の概略~

 米山は、明治の夜明け、慶応4年2月4日東京で生まれる。幼くして父を失い、母の実家静岡県三島に移り住む。その後、長泉の豪農米山家の当主藤三郎に見込まれ、養子となる。沼津兵学校の流れをくむ沼津中学に通ったが、十六才の時東京に出奔する。アメリカ大陸飛翔の念押さえがたく、二十才で渡米。苦学の末、二十八才で帰国する。

 帰国後、一時、日本鉄道会社に勤務したが、縁あって、三井銀行に職を得る。ここで、早くから認められ、異例の出世を重ね、明治四十二年、四十二才で常務取締役に取りたてられた。三井銀行は、その年、合名会社から株式会社に組織を変え、三井家の三井髙保を社長に、その下に3人の常務が配された。社長は君臨するが、経営は米山ら3人の常務が取り仕切った。米山は、その常務を大正十二年、五十六才で退任、予て温めていた信託事業を始めようとする。三井家をはじめ多くの支援を得て、大正十三年三井信託を創立、その社長となる。昭和九年社長を退き、会長となる。これが、実業家としての米山の主な足跡である。

 米山は、このような実業家としての顔の他、社会奉仕に人生の多くをさいた。これは、三つに類別できる。一つは、教育に対するもので、青山学院へのもの、郷里静岡県長泉へのものなどである。二つめは、三井報恩会の理事長として、三井家の膨大な資金を背景に、存分に社会奉仕への力を発揮した。もう一つは、奉仕団体ロータリークラブを日本に導入、創設し、これを発展させ、ロータリーの奉仕の精神を広めたことである。

 実業家としての活曜と社会奉仕への献身の一方で、米山は、文藻をよくした。早い段階では、文筆で身を立てることも考えた。アメリカ帰国直後の『開國先登 提督彼理』、研究者からも高い評価の『幕末西洋文化と沼津兵學校』、『銀行行餘録』、「常識關門』などの著書もある。中学生のころには、漢詩を作り発表したりもした。和歌については、佐佐木信綱に師事し、終生親交があった。一方、俳句も詠んだ。

クラブ会報・IT委員会 2016年 10月 25日 火曜日 | | 例会